お遍路の始まり
お遍路の始まりと逆打ちの話
簡単に言えば、金持ちでケチな三郎の家に行者の格好をした空海が托鉢に来たが三郎はケチなので断る。
それでも空海は何度もやってくるので三郎は頭に来て空海の持っている托鉢の器を叩き割ってしまった。
その後三郎の子供8人全員死んでしまう。
三郎の嫁は、もしかしてあの托鉢にきた行者はかの有名な空海上人ではないかと三郎に言う。
三郎は恐ろしくなって、今すぐ空海に謝りに行こうってことで、空海を探す旅に出た。
それがお遍路のはじまり。
でも会えなかったので逆回りで歩けば必ず会えると思い逆回りにあるくと空海に会えた。
だから逆打ちはご利益が何倍もあると言われている。
三郎は順打ちを20回歩いても空海に会えなかったから、逆打ちはご利益20倍なんじゃない⁉︎
ご利益20倍!
期待せず一歩一歩。
詳しいお話しはここから↓
伊予国を治めていた河野家の一族、衛門三郎という強欲な長者が住んでおりました。
衛門三郎は大変な長者で勢いが強く、倉荷は金銀財宝がみちみち、何不自由なく暮らして近国に比べる者もない程度の長者でした。
ところがどうしたことか非常に欲が深く、使用人をいじめたり、村人たちを苦しめ、飢えに泣いている貧しい人を見ても一銭の金も一粒の米も恵んでやることを知りませんでした。
道で病にたおれ、苦しみもだえている者を見ても振り向きもせず、これをいたわる情けもありません。
時には木や竹をふり上げて叩いたり、追い払うという、それはそれは強欲非道な長者として、だれ知らぬ者もなく、人々から鬼の長者として大変恐れられていました。
お大師様は、破れた草履をはき、破れた衣服を身にまとい、見るからにみすぼらしい姿で衛門三郎の門前で托鉢の修行をしました。
すると衛門三郎は使用人に言いつけて直ぐ追い返しました。
お大師様はあくる日も同じように門前に立ちましたがすぐに追い返されました。
次の日も門前に立ちますと、これを見た衛門三郎は怒って顔を真っ赤にし
「凝りもせず又来たか、汚いクソ坊主め、早く帰れ帰れ」
と罵りました。
お大師様はすごすごと帰りましたが、何とか衛門三郎の非道を正そうと、そのあくる日も又門前に立って
「いくらかのお米を恵んで下さい」
と申しますと、衛門三郎は悪魔のような恐ろしい顔で、
「早く帰れ帰れ、お前のような汚いクソ坊主の顔は見とうもないわい」
と大声で怒鳴りちらしたのでお大師様はすごすごと帰りました。
あくる日も、そのあくる日も懲りずに門前に立ち立っては追い返されました。
このようにしてやがて8日目のことです。
お大師様はいつものように門前に立ち鉄鉢を差し出して食べ物を乞うと、いよいよ怒った衛門三郎はもう我慢しきれず、
「一度ならず二度ならずよくも来たものじゃ」
とものすごく怒って、門前に踊り出たかと思うと、お大師様が持っていた鉄鉢を掴んで大地に投げつけて八つに割れてしまいました。
すると、八つの欠片は光明を放ちながら南の空に飛んでいき、南の山々の中腹から雲が湧き出てきました。
そして今まで門前に立っていたお大師様の姿はかき消すように見えなくなりました。
お大師様は不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。
三鈷でご祈念すると、1番目の窪みからは風が吹き、2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。
この水は八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、いまも文珠院の山中に湧いています。
強欲非道な衛門三郎も、このありさまを見て大変驚きましたが、強欲非道な心を改めようとはしませんでした。
仏の心を表す鉄鉢を砕いた罪は決して軽くはありません。
天罰はて覿面現れて、そのあくる日、衛門三郎には男の子5人と女の子3人おりましたが、長男が病気もしないのに急に死にました。
その次の日は次男が死に、その次の日には三男というように、8日間の間に次々と一人も残らず死んでしまいました。
さしもの強欲非道で涙を流したことの無い衛門三郎も、この時ばかりは大声をあげて嘆き悲しみ、涙乍らに8人の子供を葬りました。
お大師様は罪の無い子供達を不憫に思い、山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定され残っています。)
そして、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。
又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。
衛門三郎はこのようなたび重なる不思議な出来事に感じ入ってはじめて自分の非道を後悔し、恐ろしい戒めを悟って、
妻に言うことには「このごろ、空海上人とやら言う、えらーいお坊さんがあって、四国霊場をお開きになるため、この島国にこられて廻っておいでになると言うが、何時ぞや門前に立たれたお坊さんが、その空海上人様ではなかろうか」
衛門三郎は「わしが坊さんを、あざけりののしって、鉄のお碗を砕いたために、世にも不思議なおとがめを受け、その上かわいい8人の子供はその天罰によって、一人残らず死んだのに違いない、この上は四国を巡拝することにしよう」
広い田畑や山林をことごとく売り払ってお金に換え、近隣の人々に分け与え、残したお金を布の袋に詰め込んで、これで大丈夫だ行き先ざきの旅費にしようと背中に背負い旅の支度を整えて、空海上人の後を慕って四国巡拝の旅をすることにしました。
衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」と別れの水盃をいたしました。
白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って我が家を後に旅立ちました。
この姿が、お遍路さんの姿の始まりといわれています。
衛門三郎は、文殊院にお大師様を訪ねましたが、旅立ったあとでした。
紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、弘法大師がこの札を見ると衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。
(このお札を「せば札」といい、現在のお納札のもとといわれています)
やがて、8年の歳月がたちました。
その間、衛門三郎は四国寺院を20回巡りましたが、弘法大師には巡り会えませんでした。
時は天長8年(832年閏年)、徳島の切幡寺から逆に巡るとお大師さまに会えると思い逆回り(逆打)を始めました。
しかし、阿波の国(徳島県)の焼山寺の麓(現在の杖杉庵)へ差し掛かると、一休みしようと背中の袋をおろして中をのぞいて見ると、さあ大変、これまで黄金とばかり思い込んでいたお金が、いつの間にやら石になっているではありませんか。
衛門三郎は、いよいよ恐ろしくなって驚き悲しみ、自分の強欲非道の罪の深かったことを思い知り、両手を合わせてしばらくうなだれていました。
旅の疲れが一度に出たのか、体もすっかり弱りはててしまい、その上熱も出て一歩も動けなくなり、大地にうちふして息も絶え絶えに苦しみ悶え足腰立たず、衛門三郎は倒れてしまいました。
すると、死を目前にした衛門三郎の前に不思議にもお大師様の神々しいお姿がどこともなく現れて
「我は前に汝の門前に立ちし空海である。汝は強欲非道のかぎりをつくし、わが鉄鉢を砕いたではないか」
という声に驚いた衛門三郎は、ありし昔の非道を後悔し
「大師様でございますか、もったいなくも大師様とも知らず一粒の米も差し上げずあざけり、罵り、その上尊い鉢を砕いた罪をしみじみと身にしみて恐ろしくなり、この上のおとがめに耐え兼ねてにわかに四国巡拝を思い立ち、今一度お大師様に巡り会い、今までの罪を後悔して許して下さいと、雨の日も風の日もいとわず霊場を20回廻り、今21回ぶりにお大師様に巡り合うことが出来るとは、何と言う因縁でございましょう。私は今はもう余命もございません。どうか今までの犯した罪をお許し下さい」
と息も絶え絶えに、一部始終を語り、両手を合わせ真心を込めてお願いいたしました。
するとお大師様は、気高い仏様のようなお顔で
「お前は一度は悪い心が募っていたが、今は本心に立ち返って善心も強いであろう。今までにこの世の果報はすでに尽きているが、次の世の果報は受けたいであろう。願うことあれば叶えてやろう。」
と申されました。
衛門三郎はいよいよお大師様のお情け深いお心に感じ入って、落ちる涙を拭きもせず「
有難いことでございます。私のような罪深い悪人をお許し下さいますか、私は河野家の一族でございますので、願わくば河野家の世継ぎとして生まれ変わらせていただきたいと思います。」
と恐る恐る申し上げると、
お大師様は、「その願い叶えてやろう」と申されて、一つの小石を拾い、衛門三郎再来と書いて左の手に堅く握らせ、又古い一巻の経文を胸に抱かせて、「来世には必ず一国の主君の家に生れよ」と申されると、衛門三郎は大師様を拝みながら安らかに眠るように息を引き取りました。
お大師様は、衛門三郎が持っていました杉の金剛杖をお墓の上に逆に立て供養しました。
衛門三郎の墓標にと立てた金剛杖は、これ又不思議なことに根をおろして大きく成長して、廻り12m、高さ57mにもあまる大木になりました。(現在杖杉庵に2代目の杉の木が生えています)
またお大師様は、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を権修しました。
その何年か後、伊予の領主・河野伊予守左右衛門介越智息利に玉のような男の子(息方君)が誕生しました。
ところがどうしたことか、生れてから何日たっても左手を堅く握って開きません。
そこで、菩提寺である安養寺の偉いお坊さんを呼んで祈願してもらいました。
すると今まで堅く握っていた手を開きましたが、不思議なことに衛門三郎再来と書いた小石を握っておりました。
これこそ何年か前に死んだ衛門三郎が、お大師様の情け深い加持のお導きによって伊予の殿様の若君として生まれ変ったもので、若君はその後成長してりっぱな国司になったと、いい伝えられています。
石を手に握っていたということから、菩提寺である安養寺はそれから石手寺に改名され、若君が握っていたという小石は、今の四国51番札所石手寺に保存されていると伝えられています。
このような逸話が残っており、衛門三郎が「逆打ち」で廻ってお大師様に会えた年が閏年だったので、閏年に「逆打ち」するとお大師様に会えるという伝説が今に残っています